ピーエスの取り組み - 過ぎたるは及ばざるに劣る

その他(食)

その96.「いただきます」は「いただかれます」

生理学博士 久間英一郎

 今年の夏はケタはずれの猛暑と大雨で大変でしたが、皆様お元気に夏を乗り切られましたでしょうか。
 さて、今回はかねてから一度書いてみたいと思っていました「いただきます」について考えてみたいと思います。
 私達は、何気なく食事の前にはそうするものだと習慣的に唱えてきた人が多いかと思います。「何をいただくのか」「誰に対して唱えるのか」ということについてもあまりつきつめてこなかったように思います。勿論、学校でも教えてもらった記憶はありません。
 これは紛れもなく「あなたの命をいただきます」と「命の持主に対して」感謝を込めて唱えることなのです。
 ですからこれに続く言葉としては「決して無駄にはしません。必要最小限をいただきます」との言葉になるはずです。
 ひと昔前の田舎では、来客があったり特別な日は家で飼っていた鶏を犠牲にしてもてなしたり(「飼う」とは食を司ると書く)、釣った魚を家庭で調理したりと「命」と「食」が繋がっていたのですが、現代ではスーパー、コンビニの発展等によって、命の犠牲の上に別の命が生存することを理解する機会がめっきり減ったことや、大家族崩壊の影響でそれを教える環境が激減しているのも「いただきます」が正しく理解されなくなった大きな一因です。
 人によっては、「いただきます」は調理してくれた人に対して言うこと。あるいはお金を出して食べているのだから「いただきます」は不要だという人もいるようですが、これは論外です。  私達は、栄養素を食べているのではありません。食の持っている生命(力)をいただいているのです。ですから本来の食とは、生きているもの、生命(力)のあるもの|すなわち、真弓定夫博士の言葉をお借りしますと、動物なら子供(卵)を産むもの、植物なら芽が出るもの、これが命なのです。これらは生きているのですからその体内にその命を守り育てる栄養素がバランスよく含まれているはずなの です。この命をいただく(一物全体食) からこそ、あなたの命を「いただきます」なのです。
 昨今は、「いただきます」に値しない様な食物が氾濫していることは、筆者がこれまで申し上げてきた通りで皆様よくご存知のことです。
 ところで、私達は様々な命を食べてきましたが、では私達が食べられることはないのでしょうか?実はよく考えてみれば、私達も細菌やウイルスに食べられるのです。そう考えた時、ふとある考えが浮かびました。「いただきます」は、いつかは私達も「いただかれます」との静かな覚悟の表明でもあるべきなのかと。陰と陽、権利と義務のような関係かも知れません。
 ですから、私達命あるものは、与えられた命を自他共に大切にすることが責務であり、大切にすることが大切にされることなのです。食の命を無駄にしない、犠牲を最小限にとどめる生き方が私達の健康長寿に役立たないはずはありません。
 この考えを体現しているのが日本の伝統食(和食)なのです。
 「いただきます」を正しく理解すること、そして日本の伝統食を復権させることは、必ずや将来日本を救うと信じます。
 現在、日本では国と地方合わせて1000兆以上の借金があります。そのかなりの部分を医療費が占めています。
 益々膨らむ借金と医療費の解決への糸口にこの「いただきます」と「伝統食の復権」はなり得ると確信します。
 そのためには、先ず私達大人がしっかり理解を深め、将来を託する子供達にもあらゆる場面で伝えていただきたいと思います。
 明治の偉人で、「食育」の先駆者と呼ばれる村井弦斎は、「小児には徳育よりも知育よりも体育よりも食育が先」と述べています。食育の第一条に「いただきます」を位置づけていただきたいと思います。

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